【文学散歩編】天才・石川啄木を支えた、愛と葛藤の「推し活」狂騒曲
天才詩人として文学史に名を残した石川啄木。しかし、その素顔は…?周囲を巻き込む「寂しがり屋の破滅型」?啄木の函館の日々を振り返りながら、彼を支えた友人たちの愛と葛藤の人間模様、濃密な物語をどうぞ!さて、護国神社坂の上の方には「石川啄木の歌碑」が建っていま ...
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天才詩人として文学史に名を残した石川啄木。しかし、その素顔は…?周囲を巻き込む「寂しがり屋の破滅型」?啄木の函館の日々を振り返りながら、彼を支えた友人たちの愛と葛藤の人間模様、濃密な物語をどうぞ!
さて、護国神社坂の上の方には「石川啄木の歌碑」が建っています。
石川啄木は漫画『ゴールデンカムイ』に「ゲスで頭が切れる女好きの新聞記者」として登場しますが
史実はどんな人物像だったのでしょう?
函館の「幸せな日々」
石川啄木にとって、函館は「生涯で最も幸せな時間を過ごし、死んだあとも眠りたかった心のふるさと」
彼が実際に函館に滞在したのは、1907年(啄木 21歳)の約4ヶ月と短い期間。
故郷の岩手で小学校の教員をしていた啄木ですが、校長と対立して職を失い、
新しい生活の基盤を求め、函館へ渡ってきました。
函館の文学仲間(その中には将来の義弟・宮崎郁雨も)に温かく迎えられた啄木は
彼らの支援のおかげで、盛岡から妻や娘、母を呼び寄せて新生活をスタートさせます。
小学校の代用教員や、新聞記者としての職も得て、
波乱の人生の中で「穏やかで幸福な時間」を過ごしました。

しかし「明治40年の函館大火」で、その幸せは奪われます。
職を失った啄木は、次の地を求め函館を去ることに…。
函館に残された妻・節子は、生活費を工面するために
先日ご紹介した「茶房ひし伊(旧入村質店)」へ実際に通い
行李ごと呉服を質に入れていたという話が残っています。
その後、啄木は東京へ移り、天才詩人として名を馳せるも、26歳という若さでこの世を去ります。
彼は生前、友人への手紙に「死ぬときは函館へ行って死ぬ」と書き残すほど函館を恋しがったそうです。
啄木の死後、節子は当時身ごもっていた子供を出産し、翌年、26歳で啄木と同じ結核で死去しました。
石川啄木
生没年:1886年(明治19年)2月20日-1912年(明治45年)4月13日
妻・節子
生没年:1886年(明治19年)10月3日-1913年(大正2年)5月5日
破天荒すぎる素顔
薄幸の天才歌人…かと思えば、なかなかに破天荒だった啄木。
出版した歌集『一握の砂』の中でも、沢山の女性関係(恋模様)が歌われています。
既婚女性に「君の事を歌った詩が22首あるよ」なんて、手紙と本を送ったり…

はたらけど はたらけど ──という有名な歌がありますが、彼はとにかく遊興費がかかる男でした。
妻がつけた家計簿には、貧しい食事の中に、
啄木のための「うなぎの蒲焼き」「お寿司」「チョコレート」「コーヒー」などが記録されていました。
貧しくても、借金をしてでも、都会のカフェで、贅沢品だった「ココア」を嗜み
夜になれば羽織を質に入れてビールを飲みに行く…。

※ Geminiに描いてもらった啄木。
おデコの広いかっちり七三分けの写真を思い出す方も多いと思いますが、実際は強い天パだったそうです。
インテリでハイカラな自分に酔いしれ、不安を癒す…贅沢こそが若い啄木の心の拠り所だったのかもしれません。
女遊びに耽る日々
が!そのカフェ代も、日々の家賃も、友人から借りまくったお金という(笑)
人のお金で酒・女・贅沢を楽しんで、家賃も踏み倒しまくった、とんでもない破滅型でした。
性格は自己中で、エリート意識(自惚れ)が強く、節子に対してモラハラ激しく、マザコン。
のちに、宮崎郁雨は回想録を残しています。
晩年に出版した『函館の砂―啄木の歌と私と』では、愛と怒りと哀しみが入り混じった想いが綴られています。
「啄木の才能には心から心酔していたし、愛していた」
「しかし、彼の生活力のなさ、自己中心的な行動が家族をどれほど不幸にしたかについては、
本当に許しがたかった」
啄木は日記に細かく『借金メモ』をつけていました。
その中で、1番お金を貸して(差し出して?)いたのも郁雨でした。
しかしある日、郁雨が妻・節子宛てに送った手紙を見た啄木は「不貞」を疑い激怒。
郁雨へ絶交状を送ります。
自分は東京で吉原の遊郭に繰り出し、芸者や女給と遊び歩いて、借金を重ねたくせに…おまそれ?
※ 女給(今で言うホステスさん)
郁雨は函館で、家族をまるっと世話してくれた恩人なのに…。
啄木は病床にあっても「郁雨のもとへは行くな」と執念を燃やし、疑い続けました。
それでも、啄木の死後、現在も函館の立待岬にある「啄木一族の墓」の建立に宮崎郁雨は奔走します。
(啄木の娘たちも病死で短命でした。)
実は絶交してもなお、郁雨は知人を介して、啄木に内緒で金銭的援助を続けていたそうです。
身勝手な啄木への愛憎を超えた、郁雨の強い責任感と漢気を感じます。

そして、郁雨と一緒にお墓作りの資金を集めたのが、もう一人のキーマン・金田一京助
のちに国から文化勲章も授与される日本を代表する言語学者ですが
彼もまた、啄木に振り回されまくった一人でした。
究極の「推し活」
アイヌ語研究の本格的な創始者であり、「三省堂などの国語辞典」の監修、編集に携わった人物で
1番身近な所で言うと、ミステリー小説の金字塔「金田一耕助」の名前のモデルでもあります。
じっちゃんの名にかけて!
金田一は、啄木の「4歳年上(2学年先輩)」
同じ岩手出身で、同じ中学校(盛岡尋常中学校)の先輩・後輩という間柄でした。
中学校で「神童」と話題だった後輩。
上京した啄木は金田一の下宿に転がり込み、怒涛の共同生活がスタートします。
啄木の度重なる金の無心や家賃滞納で、金田一は荷車2台分の大切な蔵書を売り払い、30円を工面。
※「明治末期の1円=おおよそ現在の1万円」
二人で「蓋平館別荘」へ引越します。
啄木が案内されたのは超狭小部屋でしたが、窓を開け「富士山が見える!」と大はしゃぎしたそう。
金田一は家財や服を質屋に持ち込み、身を削って啄木を支え続けました。
その後「東京朝日新聞」の校正係(月給25円)として定職を得た啄木は
函館でずっと待っていた家族を東京へ呼び寄せ、床屋の2階に新居を借りました。
上野駅まで家族を迎えに行った日(1909年6月)以降『ローマ字日記』※ の筆はぴたりと止まります。
重なる悲劇
念願だった家族との東京生活でしたが、それもわずか2年余り…。
待っていたのは貧困と病魔に追われる苦しい日々でした。

上京から4ヶ月後、姑からの嫁いびりに耐えかねた節子は、娘を連れて盛岡の実家へ家出。
郁雨らの説得で戻るも…翌年は、生後ひと月の長男が息を引き取るという悲劇が一家を襲います。
さて、金田一は一時、啄木と距離を置いていました。
(奥さんに「啄木さんと私、どちらが大事なんですか?」と涙ながらに詰め寄られたエピソードが!)
それでも、親友の死の間際には、何とかお金を工面して病床へと駆けつけました。
晩年、人から「啄木に貸したお金、総額でいくら?」と聞かれ、金田一はこう答えたそうです。
「そんなことは覚えていません。ただ、僕の持っていたものは、全部彼のものだったのです」
お人好しか、啄木の才能に惚れていたのか…
今で言う、究極の「推し活」だったのかもしれません。
啄木の代表歌集『一握の砂』の巻頭には、啄木自身の手で、感謝の言葉が記されています。
「函館なる郁雨宮崎大四郎君 同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ」

この「示しし人」は誰なんだろうなぁ…?
もし生前にしっかり印税が入っていたら(マメにメモを残すくらいですし)
きっと周りに色をつけて借金を返してたんじゃないかな?と思います。
友の絆
さてもう1人、啄木の人生のラストスパートを支えた人物に「朝日新聞」の同僚、
歌人の土岐哀果(ときあいか/本名:土岐善麿・ぜんまろ)がいます。
後年は本名で国語審議会会長を務めるなど活躍し、
日本で最初の「駅伝(東海道駅伝徒歩競走)」を企画・提案した人物でもあります。
金田一や郁雨が「長年の親友」だとしたら、土岐は「人生の最後を過ごした相棒」でしょうか。
哀果は啄木の1歳年上。二人は互いの才能を認め合い、無二の親友になりました。
先ほど書いた、絶交していた啄木への郁雨の内緒の金銭援助を仲介した知人というのが哀果です。
そして、病床を何度も見舞い、最期を看取り、遺作を世に送り出したのも哀果でした。

彼は残されたノートを整理、啄木のエッセイの一節から、遺歌集『悲しき玩具』というタイトルをつけ発行。
さらに『啄木全集』の編纂(へんさん)にも奔走し、文豪・石川啄木の名を後世に残しました。

啄木はダメな所も多いけれど、人たらしで、憎めない可愛い面も多々あったのでしょうね。
現代における高い評価は、彼の死後、友人たちの熱心な働きかけによる功績も大きいと思います。
第一歌集『一握の砂』
出版: 1910年(明治43年)12月
(啄木 24歳)
第二歌集『悲しき玩具』
出版: 1912年(明治45年)6月
(没後 2ヶ月)
日記『ローマ字日記』
執筆: 1909年(明治42年)4月〜6月(啄木 23歳)
出版: 1948年(昭和23年)10月
(没後 36年)
秘密の日記
(※ 補足:ローマ字で書いた「秘密の日記」)
ローマ字を読める人が少なかった時代、妻に読まれたくない娼家通いや、嘘や本音や弱音を記したもの。
「死んだらノート類は全て燃やして!」と頼んでいた「プライベートノート」だったのに…
世間に公表された事は、本人は相当不本意だったでしょうね〜。(お空の上で)

遺族や友人たちが、日記を見つけ、その生々しさに「赤裸々すぎる」けれど「文学的に価値がある」と…
「燃やすべきか、残すべきか」激しい葛藤ののち(終戦後)文学的遺産として出版されました。


