【小樽の光と影・後編】栄華から凋落|多喜二が命がけで書いた物語
「小樽の海」が飲み込んだ、光と影の物語(後編)。栄華を極めたニシン漁の衰退、労働者たちが流れついた、地獄の「蟹工船」——。虐げられた人々のために命を燃やした若き文豪・小林多喜二の人生を追います。▽ 北前船の恩恵とニシン漁のバブルにより、莫大な富を築いた大 ...
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「小樽の海」が飲み込んだ、光と影の物語(後編)。栄華を極めたニシン漁の衰退、労働者たちが流れついた、地獄の「蟹工船」——。虐げられた人々のために命を燃やした若き文豪・小林多喜二の人生を追います。
▽ 北前船の恩恵とニシン漁のバブルにより、莫大な富を築いた大網元たち
ニシンバブル崩壊

北前船
北前船(きたまえせん)は、ただの輸送船ではなく「買い積み」というビジネスを行っていた、超大型商業船。
大阪で仕入れたお米や服を、寄港地で売りながら北上し、北海道(小樽や函館)でニシンや昆布を仕入れ、
それを本州で高く売り、一往復で現在の数千万円~数億円もの利益を叩き出しました。
蟹工船
小樽ゆかりの作家・小林多喜二の有名なプロレタリア小説『蟹工船(かにこうせん)』の舞台。法律の届かない外洋の船上で、劣悪かつ過酷な環境のなか、労働者たちはカニの缶詰作りに酷使されました。
今年(令和8年)は昭和でいうと、昭和101年。
今から、100〜200年前のお話です。
同時期に生きた人物達を生没年表にしてみました。

青山政吉・政恵が豪邸に着工したのが、初代・留吉の他界、翌年というのが…色々想像しちゃいます(笑)
「蟹工船」と、使い捨ての労働者

※ プロレタリア文学… 過酷な労働環境に置かれた労働者が団結して不条理な社会の変革に挑む文学作品。
エリート銀行員にも関わらず、声をあげた小林多喜二(こばやし たきじ)とはどんな人物?

多喜二の生涯と、彼をめぐる人々
小林多喜二は、秋田の貧しい農家に生まれました。
幼少期に叔父を頼って、家族で小樽へ移住し、叔父のパン工場で働きながら学校に通っていたため
根っこには「貧しい働く人々」への強い共感がずっとありました。
小樽高等商業学校(超名門校)時代から校内誌などに作品を発表し、文才は群を抜いていた多喜二。
卒業後は「北海道拓殖銀行(拓銀)」の小樽支店に勤務し、エリート銀行員としての道を歩み始めます。
1929年5〜6月、プロレタリア文学誌に掲載された『蟹工船』が大ヒット。一躍、脚光を浴びます。
しかし同年11月『不在地主』を発表したことで、状況は一変。
小樽の「磯野小作争議」をモデルに、農民搾取の実態を描いたこの作品は
自身が勤める「拓銀」の冷酷な搾取構造を実名に近い形で、露骨に批判・告発したものでした。
「中央公論」に掲載され大問題となり、多喜二は拓銀を即座に解雇されます。
小樽での生活基盤を失い、警察(特高)から危険人物として厳しくマークされるなか
1930年3月、強い決意を胸に拠点を小樽から東京へ。
※ 特高(特別高等警察)…思想を取り締まる「秘密警察」
「全日本無産者芸術団体協議会・通称NAPF(ナップ)」へと、身を投じていきました。
生涯の恋人・田口タキ
多喜二が1928年に執筆した短編小説『瀧子(たきこ)』
貧しさゆえに酌婦(お酒の席でもてなす女性)として働かされ、借金に縛られている少女・瀧子。
この作品は、多喜二が恋人の田口タキをモデルに書いた、初期の私小説です。
1930年、タキも美容師の修業のために上京。二人は東京で再会し、浅草などでデートを重ねました。
多喜二は「落ち着いたら結婚する」と、周囲に語っていたそうです。
1931年7月、多喜二は母(セキ)と弟を小樽から東京へ呼び寄せ、
阿佐ヶ谷(馬橋)の借家で親子三人の同居を始めました。
しかし、翌1932年、特高警察による弾圧が激化。
多喜二は家を出て、高円寺や荻窪などを転々としながら、命がけの地下潜伏生活を余儀なくされます。
1933年2月、多喜二は築地で逮捕され、特高警察による凄惨な拷問を受け、29歳という若さで急逝しました。
遺体が母の待つ阿佐ヶ谷の自宅へ、タキも駆けつけます。
むごく、変わり果てた息子の亡骸を前に、母親のセキが泣き崩れながら叫んだ言葉はあまりにも有名…。
「それ、もう一度立って見せねか、多喜二、みんなのためにもう一度立たねか!」
多喜二の生き様
エリート銀行員として、何不自由なく暮らせたはずなのに…
多喜二は「虐げられた人々」の姿をどうしても見ぬふりができなかったんですね。
「自分だけが仕立ての良いスーツを着て、美味しいものを食べている。
でも、そのお金は自分が勤める銀行が、貧しい人々から冷酷に搾り取った小作料ではないか」
自分の成功が誰かの犠牲の上に成り立っているという事実に、彼は激しい葛藤と痛みを覚えたのでしょう。
自らの幸福を拒絶した姿は…一見青い正義感にも見えますが
純粋で気高い「一途な優しさ」だったと感じます。
後輩・伊藤整が囚われた「多喜二の影」
多喜二の小樽高商の1年後輩にあたる作家・伊藤整は、多喜二の死から4年後(1937年)
『幽鬼の街』という短編を発表します。
昭和12年、主人公(伊藤)が東京から故郷へ帰省し、雪の小樽(拓殖銀行周辺など)を歩いていると、
拷問死したはずの多喜二の幻影が現れる…という心理小説です。
死してなお強烈な光を放つ多喜二の亡霊を前に
「世間に流されて安全に生きている」という罪悪感と「凡人としての苦悩」に苛まれる主人公。
伊藤が、親友(川崎昇)の下宿先「衣斐(いび)質店」に通い詰めて、
詩集の相談をしていたのは大正12〜15年頃。
この時、多喜二は学校を卒業し「北海道拓殖銀行」の銀行員として働き始めていました。
▽ 藪半の駐車場🅿️裏が「旧衣斐質店」
多喜二は「衣斐質店」近くの「拓銀 小樽支店(現・似鳥美術館)」に勤務しながら
小樽の街の文学青年たちと文芸誌『クラルテ』を作るなど、地元の文学活動の中心に。
※『クラルテ(Clarté)』は、フランス語で「光」「明晰さ」という意味。
調べると、2人の関係性は特に親密ではなかったようですが
伊藤にとって多喜二は、常に「遠くから眩しく眺める存在」でした。
多喜二の圧倒的な行動力と情熱に、コンプレックスを抱きながら
伊藤は多喜二の激しい生き様に惹かれ、囚われていたのかもしれません。
小樽の過酷な現実を変えるために、命を燃やした小林多喜二と
小樽の静かな雪景色を美しく繊細な言葉に昇華させた伊藤整。
歩んだ道も思想も違いましたが、同じ小樽の街で青春を過ごし、互いの才能を意識し合った二人でした。
ちなみに、多喜二の恋人のタキさんはその後結婚し、102歳まで長生きされました。(2003年逝去)
あまり多くは語らなかったそうです。
きっと…多喜二の分まで懸命に生き抜いたのではないかと、勝手ながら想像します。
ここまで読んでくださった方!ありがとうございます✨
小樽のレトロな街並みに、ノスタルジーを超えた深みを感じて貰えると嬉しいです(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
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